今日は、ライフに買い物をしたり、ゴミ捨てをしてたりしていました。
書く習慣で脳は本気になる 茂木 健一郎著
2026年8月11日(月)p159〜p189抜粋
とても充実した日々を送ることができたと、今でも感謝しています誰の人生にもifがある。
早すぎる自伝を書くときに、自分が選択したことはもちろんですが、選択しなかったもう一つの可能性について考えてみると、今まで気づかなかった自分の気持ちが見えてくることがあります。
僕の場合はあの時その選択をしなかったから今の自分があると思える出来事が二つあります。
一つは、イギリス留学中のこと。
理研に勤めていた時僕はイギリスのケンブリッジ大学に二年間留学していました、
二年という期限は、奨学金がもらえる期間だったというだけで、その後イギリスに留まるという選択肢もあったのに、僕はイギリスには残らず日本に帰ってきました。
もう一つの可能性は、商社マンになっていたかもしれないこと。
僕には、大学の理学部物理科を卒業したあと、学士編入をして法学部で学んでいた時期がありました。
なぜ物理から法律に行ったのかというと、二十二歳の時付き合っていた女性の影響で、科学を辞めて実業の世界でやっていこうと思ったからです。
今でもそうなのかもしれませんが、文系の世界では〇〇物産や〇〇商事は給料が高いとか、外交官試験や司法試験を受けるといったことが話題の中心になっています。
彼女も私のゼミの△△は〇〇物産に入って△年目で外国に赴任して・・・という価値観を僕にぶつけてきました。
反対に、物理を専攻している僕にとって大事なことに、彼女は全く興味を示しませんでした。
彼女は、〇〇歳で大学の教授になって、そうすると年収がいくらで・・・というよに、自分が付き合っている人間はどれぐらい社会的な尊敬を受けるのかというステータスを物差しにして僕を見ていたのです。
僕は単純にアインシュタインに憧れて、アインシュタインみたいなことをやりたいと思っていただけです。
科学者なんかやっていると貧乏になるのか・・・そうスロと、目の前にいる好きな女を満足させてあげられないと考えて、実業の世界に踏みみ出そうとしたのです。彼女の望むような人にならなくては生きないと思ったことが僕にとっては人生の一大転機でした。
ところが、法学部で授業を受けて三日目で、あ、僕には合わないと思って、授業はいっさい出なくなりました。
まさに三日坊主ですね。
単位だけとって卒業して、再び物理学の大学院に戻りました。
夏目漱石の三四郎には理科大で研究生活を送っている野々宮くんという研究者が出てきます。
三四郎が憧れるヒロインの美禰子は華やかな実業家の人のところへ嫁入りしたのですが、三四郎は実は最初から蚊帳の外で、この小説は野々宮くんと美禰子の間の秘めた物語となっています。
当時の僕はまさに野々宮で、美禰子と結婚するために、彼女が望む実業の世界に身を投じようとしたのですが、僕には全く合わなかった。その彼女と別れたことは、人生最大の挫折かもしれません。結局、商社マンにはならず、大学院はまた物理に戻ったのですが、自分は商社マンになるのかもしれないと思った時の心がザワザワする感じは、いまだに自分の中に残っています。
もしイギリスに留まっていれば、研究に専念して今頃、ノーベル賞級の科学的発見をしていたかもしれない。
もし、実業の世界に進んでいれば、エリートとしてバリバリ働いていたかもしれないし、あるいは組織に馴染めず独立していたかもしれない。
イギリス留学を二年で終えて日本に帰ってきたこと。法学部に転入したものの。科学の世界に戻ってきたこと。この二つの選択に、自分という人間がすごくよく表れています。
誰にも、あの時あっちの道を選んでいればというIFの世界を考えることはあるでしょう。
もしかしたら、さまざまな理由で選択しなかった可能性の中に、本当NIやりたかったことや、子供の頃の夢が潜んでいることがあるのかもしれません。
自伝を書くことは、自分でも気がつかなかったその可能性に気づくことなのです。
子供の頃にやりたかったことやなりたかった職業があったのに、社会的状況や経済的制約のために断念して、別の道を選ぶ・・・・。
人間には誰しもそういう側面があります。
思い通りにいかないのが人生の常。それでも、いつまでもそうした欲望を抑え込んでいくことは脳にとっても良くありません。
僕にしても子供の頃は蝶が好きだったのに、フーブルのような昆虫学者になることはありませんでした。
形を変えて、脳科学者になったのですから、子供の頃の夢を半ば実現していることになりますが・・・・
このように自伝を書くことは、自分の無意識にしまい混んでいた夢WOもう一回解き放つことになります。
自分の人生にセレンディピティーを発見する
僕自身も過去を振り返りながら、そもそも、なんでこんなに不確実性だらけの人生を送っているのかという素朴な疑問がずーっとありました。
先日も大学のビジネススクールで講演をした時に、なんで俺はここで話WOしているのだろう?と不思議な気持ちになったものです。
僕にとって人生で最初の講演は、小学5年生の時に全校生徒の前で発表した10分間の蝶の研究の話でした。
テーマが僕の好きだった蝶とはいえ、500人くらいの生徒や先生方の前で一人で話をするのですから、子供心にものすごく緊張したことを覚えています。それでも数分もして慣れてくると、専門用語WO交えたりして、一端の学者のように話をしていたものです。
ビジネススクールの講演後、ふと初めての公演を思い出しました。
ああ、そうか。講演というのは子供の時に好きなことだったんだな。
だったら、今大勢の人の前で話すのは、自分が好きでやっていることなんだ。
改めて自分自身のルーツを再確認しました。
このように自分が、今、ここに流れ着いた経緯を振り返ることは、とても大事なことです。
自分自身の人生を整理することは、自分がこれまで歩んできた人生の軌跡を書き出していくことであり、脳の中NI確実のものを積み上げていくということです。その積み上げた確実性の分だけその後に続く不確実なものにも対処できるようになって、生の偶有性を楽しむことができます。
例えば、会社を辞めてフリーランスのライターになったとしたら、会社を辞めてフリーランスとして活躍するまでの人生を振り返るのではなく、そもそもフリーランスライターを選ぶ気っかけやや動機を子供の頃にまで遡って探してみるといいかもしれません。
そうすると例えば会社を辞めてフリーランスになってしまった人にとってあの時のこういう体験があったから、フリーランスライターになりたいと思ったんだと決断の背景が明らかになってきます。
自分の人生を振り返ると、ああ、これがセレンディピティーだったのかという場面が一度や二度は見つかるはずです。
そうした数奇な出来事は書くことでしか思い出すことができません。
僕の場合もそうでした。
自伝を早く書くとそれだけ早く自分の人生を整理できて、次のステップに飛ぶことができます。
そういう県警をしないどそのまま先に行ってしまう人が多いのは、なんとももったいないことです。
早すぎる自伝は、1回書いたらもうそれでおしまいというものでもありません。
一つの考え方は、ウィキペディア(インターネット上のオンライン百科事典)のように、誰もが随時書き込み可能にすることで、自伝の基本となるところは自分で作り、その上で、自分のことをよく知っている人に見せて、
加筆修正をしてもらう。自分でも新たな発見があったら、書き加えていく。このように進化する自伝を作っていくことで、自分の人生が次の道に行く
道しるべになって行きます。
ネガティブなことは書いてはいけない。
早すぎる自伝を書くときに、気をつけた方がいいことが一つあります。
それは、ネガティブなかんじょうを書かないこと。
読者の中には、過去に受験や就職で第一志望に受けらなかった人がいるかもしれません。
もう一つの可能性を考えることは、自分の無意識の中にしまい込んだ夢を解き放つことだと言いましたが、それに囚われすぎるのもいいことではないのです。
むしろ害悪でさえあります。
第一志望の学校や会社に行かなかったから、今の自分がある・・・・
それは、事実です。
その今の自分が持っている可能性をもっと活かすために、早すぎる自伝を書く意味があります。
うまく行かんかったことに囚われて、あの時あそこに行っていれば、俺の人生はばら色だったとかあの時受かっていれば、こんなところで燻っていないというようなことを書くのは、ご法度です。
それは、過去の自分のみならず、今の自分を否定しています。
辛いこと、苦しいことがあったとしても、辛かった、苦しかったと書いたところで何も解決しません。今に見ていろ!とか、絶対に見返してやる!というふうに自分を鼓舞することを書くのも同様です・
少なくともストレス発散以上の効果は期待できません。
ネガティブなことを書かない方がいいのは、生産的ではないからです。
それを書いたところで、現実は何も変わらないし、書いてスッキリするだけでは、自己満足に終わってしまいます。
僕自身、学生時代にドロドロした悩みをノートに書いたことがあります。確かに書くとスッキリしたし、一件落着したような気分になります。
もっとも、それは悩みを外部化しただけ。
自分の外に出すことは、ストレス発散になりますが。その一方で自分のものでなくなるという弊害があります。
言い換えれば、当事者意識がなくなるということ。
悩みを解決する根本的な行動を1つ元っていないのですから、現実が変わる子はあり得ません。
程なくしてまるでデジャヴュのように、その悩みに直面することになります。
それは、当たり前です。
自分自身がその悩みを全く解決してこなかったのですから・・・・。
うまく行かなかった時に必要なのは、では、これからどうするか?を考えることと、その具体的な行動・対策です。
辛く苦しいことがあるなら、解決策を実行して意外にそれを解決する方法はありません。
それを考えるのに、早すぎる自伝を利用すべきです。
早すぎる自伝を書いているうちに、ネガティブな感情まで思い出したら。そのと気にとっておくべきだった行動や解決策を書くようにします。
それは、その時に自分自身ができなかったことです。
その行動や解決策は、これからの人生において役に立つことがあるかもしれません。
それを考えることは、有意義なことです。
もし、その行動をとっていれば、もう1つの可能性が日の目を見たかもしれませんが、それは終わったこと。
これからの人生で繰り返さなければ、新たな可能性が開けることもあるし、夢の実現に一歩つかづけるかもしれません。
くれぐれもネガティブなことは書かないように・・・
この章では、自分自分の人生を整理する方法をお話ししてきました。
次章では、夢を叶えるための言葉を磨く技術を中心に説明して行きます。
第4章のまとめ
1 自分の夢や目標がわからなければ、紙とペンを用意して思いつくままを書いたり、一人ブレストをすると見つけやすい。
2 脳は感覚系学習の回路で情報を入力し、運動系学習の回路を通して出力する。
3 誰の人生にもカノンとなるような出来事はある。
4 早すぎる自伝とは、脳の外に固定点を持つことであり、自分の人生を整理すること、そして時空を超えて、過去の自分と対話することである。
5 自分の人生を振り返っていくと、本当にやりたかったことや、無意識に
しまい混んでいた夢にもう一度気づく可能性がある。
6 自分の人生にセレンディピティーを発見すると、次のステップに飛ぶことができる。
7 早すぎる自伝には、ネガティブなことは書かない
第5章
言葉という鏡を磨いていく
言葉は脳を変える力を持つ
本性ではちよっと話題を変えて、そもそも言葉とは何か、ということを少し考えて行きます。
歴史を紐解くと、言葉と願いの2つは非常に密接な関係にありました。
ソシュールやヴィトゲンシュタインの言語哲学の登場以降、何かの情報を伝達したり、記録したりするために用いるものであるというように、我々は機能的な役割のみに焦点を当てて考えるようになりました。
もともと言葉、あるいは文字の起源は呪術的なものでした。
宗教的儀式において文字を刻むことで作物の出来や将来を占ったり、祈りを捧げることで人々の願いを叶えようとしたり、あるいは呪いの言葉をかけたりすることで、自分にとって邪魔な人間を排除しようとしました。
実にさまざまな場面において、人間は言葉を駆使して、自分たちの願いを叶えようとしてきたのです。
つまり、文字とはそれを書くことで、世の中に何らかの変化を起こしたいという欲求の表れとして発展してかたものなのです。
もちろんそれは今日の発想からしてみれば、科学的なアプローチではありません。
書くだけで夢が叶うとは。願いを文字にすると、天空のどこかから神様がそれを見ていて叶えてくれる。ということでもありません。
逆に誰かを呪ったりすることで、願いが聞き届けられることもないのです。
では、なぜ書くだけで願いが叶うのかというと、その言葉を発した人間の脳の状態が変化するからです。
例えば、僕は将来、宇宙飛行士になりたいと子供が言ったとします。
ある願いを口にした人の脳は、その言葉を一度も発したことのなかった頃の状態に比べると、明らかに仕組みが変化します。
願いを口にする前の人間がアルファだとすると、僕は宇宙飛行士になりたいと言った人間は、’アルファになる。同じ人間でも、新しい」脳の回路が立ち上がり、宇宙飛行士になるためにはどうしたら良いかということを常に考え、情報収集するようになります。それまでテレビやインターネットで流れていた宇宙飛行士に関する情報を何げなくスルーしていたとしても、脳の回路が強化されると、それらの情報を前頭葉がいち早くキャッチしてどんどん脳に送り込むようになります。
願いが叶うというのは、何か見えない力や神様が叶えてくれるということではなく、他ならぬ自分自身の脳の状態が変わることで、自らの力で手たぐり寄せていくということなのです。
人は何故鏡を見るのか。
言葉とは人間にとって、自分の姿を映すもう一つの鏡です。
人は鏡を得ることで、自分の姿をはっきりめにすることができます。
他人からは、こう見えているという自分の姿は鏡無くして確認しようがありません。
地球上には文字を持っている文化圏と持っていない文化圏があるように、鏡を持つている文化と持っていない文化があります。
鏡を一度も見たことのない人々に初めて見せると、最初はそこに映る姿が自分のものだとはわからずに、とてもびっくりするそうです。
鏡の中に誰か他の人がいると思うからです。
動物に鏡を見せて、その中に映っている姿が自分だと認識できるかどうかを確認するミラーテストというものがあります。
人間であれば、初めて鏡を見る人でも、徐々にそれは自分自身の姿を写したものであると気づくようになりますが、基本的に動物はそれがわかりません。時間がたっても、相変わらず鏡の中にいるのは自分以外の何者かであると思って威嚇し続けます。
ところが、一部の動物たちは、そこに映画っているのが他ならぬ自分自身であることに気づきます。
例えばアジアゾウやオラウータン、シャチやイルカなどは、このミラーテストに合格しています。
鏡を見せた当初は、自分以外の何者かがそこにいると思って威嚇しますが、次第にもしかしたらこれは自分かもしれないと疑い始めます。
鏡の中の疑わしき存在は自分だと認識します。
最終的に、鏡の中の存在は自分であると理解した動物は、例えば飼育係が頭のところにわざと印をつけておくと、鏡を見てびっくりし、それを取ろうとして努力します。
ちょうど僕たちが頭についているゴミを
鏡を見ながら取ろうとするように、ミラーテストに合格した動物たちは、鏡を見ながらその印を取ろうとするのです。
これらの動物たちは他者への共感能力が高いという共通点があります。
仲間が困っていたら、それを放っておくのではなく、助けをようとするなどの、自分以外の存在を思いやる心が側らいているのです。
もちろん、人間と同じレベルでの、自己認識能力や他者への共感力があるわけではありません。
ミラーニューロンで自己認識をする
鏡についてもう一つ重要なキーワードがあります。
それはミラーニューロンと呼ばれる脳内の細胞です。
例えば僕が手を伸ばして物を取ろうとしたとします。
そうすると、それを見ている他人の神経細胞も、あたかも自分が手を伸ばしかのように活発化します。
その行動をしているのは僕なのに、見ているその人までもが、脳内でその行動をしているように錯覚してしまう・・・。向かい合っている恋人が
ほほエバ、自分も同じように嬉しく感じるし、逆に悲しそうな表情をすれば、同じように悲しく感じるのも同じ理由からです。
あたかも鏡で映し合わせたように、自分の行動と他者の行動が表現される。そればミラーニューロンです。
このミラーニューロンは自己意識に関しても重要な役割を果たしています。
僕たちは鏡に映る自分の姿を、実は他者として認識します。
すなわち、鏡を見ることで、鏡に映った自分に対し、他人の行動を目にした時と同じ、ミラーニューロンが働くのです。
よく、他人は自分の鏡という表現をしますが、まさに鏡自体が他者の役割を果たしてくれています。
僕たちは鏡に映し出された自分の姿を見ながら、今日は髪型が綺麗にまとまっているわ、今日は、なんだか疲れているなと自分自身の状態をあたかも他者であるかのように、確認したり認識したりしているのです。
本物の言葉は人の心を捉える。
言葉には、借り物の言葉と本物の言葉があります。
世の中には、本物のふりをして、借り物の言葉を使っている人がたくさんいます。
使っている本人さえも自分が借り物の言葉を喋っていることに気づいていない場合もあります。
僕の好きな夏目漱石の小説三四郎の中には、主人公の友人・与次郎が出てきます。
彼はおっちょこちょいながら世話焼きの好人物ですが、自分を過大評価しているところがあります。
時に無意識に自分の能力を高く見せるための悪意のないほらを吹きます。
菊人形を見に行こうと誘う三四郎に対して、与次郎がこう答える場面があります。
論文を書いている。大論文を書いている。なかなかそれどころじゃない。
ここで三四郎は笑いますが、読者も内心でふっと笑っています。
何故なら彼が決して大論文など書き上げる男ではないことは、すでにそれまでの人物描写でわかりきっているから。
それなの与次郎だけは大まじめで、大論文を書くと言っています。
彼のような男は小説の登場人物としてはなかなか面白い人物ですが、実生活で今、小説を書いていると言いながら、いつまでもいっこうに書き上げないような人物は軽蔑の対象になるだけです。
与次郎のケースは別として、借り物の言葉と本物の言葉を見分けるのは至難の業です。これが本物の言葉、これが借り物の言葉という明確な線引きはありません。例えば友愛という言葉もある人にとっては借り物の言葉かもしれませんが、別に人にとっては、本物の言葉かもしれません。
借り物か本物かを見分ける
基準はあくまでも自分の中だけにあります。
もっと言うと正解はなくて、自分はその言葉を聞いて、本物だと思う、あるいは借り物だと判断するしかありません。
そう判断した責任は、自分が持ちます。
一つ確かなことは、自分が本気で生きていればその見分けがつくこと。
詩人・作家のオスカーワイルドには、次のような言葉があります。
WE ARE ALL IN THE GUTTER,BUT SOME OF UW ARE LOOKIN AT THE STARS.
GUTTER というのは下水溝という意味で映画のマイ・フェア・レデイのセリフにもあるように、下層階級というようにニュアンスも含みます。
自伝を書くことは、自分でも気がつかなかったその可能性に気づくことなのです。
私も、子供の頃にやりたかった職業として、ピアノの講師という選択をしましたが、高校の頃エレクトーンの講師という事で変更をしましたが、
目指すグレードに到達をして、エレクトーンハウスや生徒さんの自宅へ伺ったりして、ヤマハの講師を目指しましたが、試験勉強がする暇がなく社会的状況や経済的制約の為に今は別の道として、介護福祉士を目指しています。
皆さんはどのような道であるにしても、頑張って下さい。田中 深雪
